大悲庵のブログ

高野山真言宗大師教会

自灯明・法灯明

先日親戚の葬儀に参列しました。その際、他宗の導師の方がお釈迦様の自灯明・法灯明の法話をされました。お釈迦さまが自らの死期が迫ったときに「自らを拠り所(灯明)とし、法を拠り所(灯明)としなさい」と弟子たちに説いたとされるお話です。自分が「自らを拠り所とする」ということを身を持って知ったのは40歳を過ぎてからでした。

数年前、新聞に社会学者の上野千鶴子さんが13歳の時に『法句経』の「我こそ我の主なれ、いかんぞ他を主とすべけん」というお釈迦様の言葉を知り、「自分の人生の主は自分である」ことを意識した、という記事が掲載されていました。自分も13歳で意識していれば、もっと違った人生であったろう、と記事を読んでため息が出たものです。自分のこれまでの失敗だらけの人生を思い返し、幼少期の己の傲慢を恥ずかしく思ったり、成人後の幼稚であったふるまいを厭忌したりしています。

(自灯明、我こそ我の主)、これらの「自分」は決して「エゴ丸出しの自我」という意味ではなく、「自己をよく整えたならば、得難き主を得る」と『法句経』の言葉には続きがあるのです。お釈迦様の教えは普遍です。もっと早くに知っていれば生きやすかったのではなかったかと思うのです。